25年目



 25年目に入りました。 昨年のカゴ作りを振り返って。


 下写真は、フタ付きのカゴです。 左は、一升取りの「ご飯じょけ」。 蓋が噛み合うところのヒゴをR型に折り曲げて、タッパーみたいにカプっとはまるようにします。 右は、ただ上から被せる式のフタ付き手提げカゴです。 アメ色になっているのは、地元の方に7,8年前に作ったもので、底の足竹を修理しました。






 下は、川関連のカゴで、こちらも同じくフタ付きです。 左は、地元の注文で作った、捕獲したウナギを入れる「うなぎカゴ」。 一回り小さめに作り、横幅が約30cm、高さが約38cmです。 ここから4,5キロ下流のところでは、ウナギがよく捕れるそうです。  右は、モクズガニを捕獲する「川蟹(がね)てご」。 横幅が約50数センチ、中に餌となる魚の切り身などを入れ、川に沈めて使います。

 




 「がねてご」の蟹が入る仕掛けの「こした」部分、これは胴体に丸くハサミで穴を開け、別途あとから2個取り付けます。 師匠たちは、もっぱら針金で括って取り付けていましたが、私は同じ竹で巻いてみました。 かなり苦戦しましたが、カゴ自体が川に流されたりする可能性もあるので、自然素材の方が安心のように思います。






 下写真は、縁をツヅラで仕上げたもの。 針金を使用しない場合、このように伝統的素材であるツヅラを使うこともあります。 正式名称は、「オオツヅラフジ」だと思います。 地元の山に、限られた場所で自生しています。 針金と比べて、こちらも下処理やその扱いに手間がかかります。 

 左は、雑草や砂利を運ぶ「手箕(てみ)」。 地元のおばあちゃんからの注文で、久しぶりに作りました。 今はプラスチック製が殆どですが、かつてこの辺りには、竹の「手箕」専門の職人がいたほどに、よく使われていました。 右は、深めに編んだ、直径65cmの大ザル。 酒造場からの注文で作りました。







 下は、私が十年以上前に編んだカゴの修理で、「かれてご」の足竹と、「一斗じょけ」の縁巻きの取り替えを行いました。 私は、こんな風に深い飴色になったカゴは、もうこの世におられない職人さん達のものばかりと思っていました。 が、まさか自分のカゴもその仲間入りをしているとは、驚きでした。 作りたての青々しさよりも、こうやってしっかり働いたあとの方が、カゴとして本来の姿であるように思います。





 

 下は、地元のおばあちゃんからの依頼で作った、ザル20個です。 ご自分の百歳の誕生日に、皆に何かお配りしたいということで、相談を受けました。 彼女自身はまだまだお元気、畑仕事にも精を出されています。 まさか百歳の方からご注文を頂けるとは、私にとっても良い記念となりました。

 私がこの村に移住してすぐの頃、彼女から同じように、ザル20個の注文をもらいました。 その時は、亡くなられた彼女の連れ合いの四十九日のお返しにということでした。 当時それは、私が師匠から独立して初めて引き受けた仕事で、かなりプレッシャーに追い込まれたのを思い出しました。 それから約21年が経過。 前回同様に納期が決められて大変でしたが、今回は、どこか俯瞰して今の仕事を眺めている自分を感じました。







 下写真は、「めご」と「一斗じょけ」。 隣町に暮らす、米寿を過ぎられたおばあちゃんからの注文で作りました。 「めご」は、元々2個で1セット。 「一荷(いっか)」と呼ばれます。 天秤棒の両端にカゴをぶら下げ、肩の上でしならせて堆肥や野菜を運ぶのに使われました。

 この「めご」を編むとき、私は何故か師匠の動きを思い出します。 特に縁を巻く作業では、腕を大きく荒っぽく動かすからでしょうか、師匠の上半身と私のそれが重なる感覚を覚えます。






 石牟礼道子さんが書かれた、「椿の海の記」を読みました。 その中に、この「めご」が登場します。 私の師匠や、その隣町のおばあちゃんが生まれた頃の時代。 近代の波が押し寄せてくる少し前、昭和初期の水俣の世界です。 

 私は「めご」という言葉は、底の目が空いているから「目籠(めご)」と呼ばれるのだと思っていました。 一方、石牟礼さんは、女たちが畑の行き来に担いだので「女籠(めご)」と言われるのだろうと、説明されています。 たくましい女性の暮らしが描かれるこのくだりを読んだとき、私の中では近所のばあちゃんの思い出話と繋がって、すっと目から鱗が落ちました。



 50代半ばになり、確実に後半に向かって歩む感じを抱いています。 前を見て先を伸ばそうとするよりも、後ろを振り返り、根元が何だったのかを考える方が多くなりました。 もともとカゴではなく、カゴを編む人たちに惹かれていました。 かつて師匠が語ってくれた、松葉杖片手に、道具袋一つで農村・漁村を泊まり歩く日々。 時を経るごとに、彼の竹職人としての人生が、私の中でより愛おしいものになるのを感じています。



 今年一年、自分なりに青竹細工の仕事が引き継げたらと願います。