青竹のカゴ  



 昨日、近所のばあちゃんに回覧物を届けに行ったら、ちょうど農協に出荷するスギナを袋詰めされているところでした。 今年2月に私が編んだ「かれてご」が側にあり、中には使い物にならないスギナの根っこの部分が入っていました。 その「かれてご」が自分なりにちょっと衝撃的だったので、デジカメを取りに戻って写真を撮らせてもらいました。




 5ヶ月前の青々としたイメージが頭の中に残っていましたが、実際はこの短期間ですっかり変貌を遂げていました。 梅雨時についたカビも何のその、お構いなしという感じです。 泥まみれになって使われているカゴを見た時、あぁ、これが本当の当たり前の姿かと、素直にそう思いました。 私は大らかなカゴ作りに憧れます。 師匠の竹細工のような健康的な荒っぽさ。 竹が暮らしの中で普通にあった時代、それを生き抜いてこられた職人のたくましさに惹かれます。 一方、今の自分のカゴ作りが、なかなかそうはなれない現実を思います。 肩に力が入って、神経をすり減らすばかりで。


 竹細工と言っても、油抜きをした白竹や、花カゴやバッグの染色したものなど、種類は様々です。 そんな中、私がしている青竹は複雑な編み方はせず、普通のゴザ目編みで作り、そして最後にただ竹で縁を巻いて仕上げるものが殆んどです。 しかし、シンプルなものほど難しい。 特に単なる丸いザル、「しょうけ」などは本当に奥が深いです。 最近は、技術的なことよりも、山に生えている竹そのものの良し悪し、最終的にはそれを見極める力が大きいと感じます。


 先日、別府で白竹をされている方と話す機会がありました。 竹細工は青竹でなくとも生活を立てていくのが難しいということ、そういった意味で、手仕事がどんなに大変かということを、もう少し今の時代の人に分かってもらうことが大切かもしれない、などと話し合いました。 私達が作るものは、プラスチックの工業製品のようにはいきません。 けれども、青竹をする自分としては、もっと別なものが根幹にある気がします。 竹の道具を使う、当たり前の日々の暮らし。 そして師匠のように、普通の人が普通に使うカゴを地道に作られてきた職人の生き方。 この平成の時代にそれが可能かどうかは分かりませんが、そんなことが今の自分に引っかかります。




 右側の「かれてご」は、私がこの集落に移住して間もない頃に編んだもので、もう7年以上が経ちました。 一緒に暮らされている、もう一人のばあちゃんが使ってくださっています。ヒゴも磨いたので、全体的にかなり飴色に深まりました。 底の竹板がだいぶ磨り減ってきたので、そろそろ取り替えんばね、と話をしたところです。 (その後、畑でスギナを収穫して家に戻られるところも撮らせていただきました。 二人並んで背負われると感慨深いです。写真1写真2) 

 青竹のカゴは、色々と矛盾を内包しながらの仕事です。 丁寧に手間暇かけて作れば安くはできないし、かと言って、生活の道具であればそんなに高くもできないし。 そして自分の生活も、10年以上経った今でも全く楽になっていないし(笑)。 ま、もう少しやり続けていく中で見えてくるのかもしれませんね。 カゴが編めることに感謝して、ぼちぼちやりたいです。