青竹


 先日、地元の方からの注文で「うなぎ籠」を編んで私が思ったことです。


 下写真の「花かご」は、その昔私がまだ竹細工を始める前、東京のある古道具屋さんで購入したものです。後に、この籠は別府の有名な竹工芸作家の作品であることがわかりました。油抜きした竹(白竹)と籐(とう)を使用し、繊細な編み方を駆使して美しく仕上げられています。床の間に飾られるような芸術品とも言える竹籠で、私の師匠が編んできた日用品の青竹細工とは分野が違いますが、これはこれで美しさがあり、私にとっては大切な思い出のある籠です。






 かつて私が弟子入り先を探していた頃、このまま昔ながらの青竹職人を探し続けるべきか、それとも別府の訓練校に入るべきか、迷ったことがありました。(訓練校では、一年間のコースを通して基本的な竹細工の知識・技術が習得できます) やはり昔ながらの青竹細工で将来食べていくのは難しいのでは、あるいはもっと現代的な竹製品を勉強できる学校の方がよいのでは・・等々。しかし、全ての竹細工の基本はまずはヒゴ取りがきちんとできるかどうか。私はそれをやはり昔の職人から直接に学びたく、その後は再び当初から自分が惹かれていた青物師を探し続けました。


 そんな中、私が訪れた、中国地方のある青物師についてです。岩波新書の「竹の民俗誌(沖浦和光著)」に彼のことは紹介されていますが、竹細工は地域によって同和問題とも関わる複雑な歴史があります。彼が暮らすその地域では、歴史的に竹細工はずっと差別されてきました。本にも書かれているように、祖父の代から竹細工職人の家庭で育ってきた彼は、小さい頃から何で竹細工の家に生まれてきたんだろうと、そして自分は竹細工以外の仕事で生きたいと、ずっと思ってこられたとのこと。しかしながら、父親の死後に彼は再び竹と向き合われ、ついに父と同じ道を歩むことを決意されます。そして別府にも通い、染色や繊細な籐(とう)技術なども習得され、いわゆる芸術品の分野にまで創作意欲を高めていかれます。しかしある時、彼は再び疑問にぶつかられたそうです。祖父の代から生活の糧として作ってきた竹細工は、工芸品ではないものの、使う人のことを考え、そして徐々に竹の色が変化していく自然なザル目編みの素朴さがあったと。技術に走れば走るだけ、自分は父親の子であることを忘れて遠ざかるような気がしてならないと。私は「うなぎ籠」を編んでいて、何故だかそんな彼の葛藤の言葉を思い出してました。


 最後に、下写真は裏の川で撮影した、その「うなぎ籠」です。青竹の籠は素朴であればあるほどに実は奥が深くて難しい、それを強く感じます。いずれにせよ、どこか生活の中で使ってもらえる籠は幸せなんだろうと、今の私は思います。