山に入って竹を切り、それをカゴにする。そんな暮らしの「道具」を生み出す力が、自分の手に在ることを願います。 竹細工には、油抜きした竹を使ったり、染色したりするものもありますが、私は、自然そのままの青竹を使って編むのが好きです。





 
 私が編んだ籠を背負って歩く地元のじいちゃん・ばあちゃんを見かける時、何とも言えない気持ちに満たされます。 時間が経過して飴色に変化し、しっかりと背中の上で収穫した野菜や農具を入れて活躍するのを見るのは、作り手として何よりの喜びです。

 一方、私たちの生活様式は日々変化しつつあり、それに応じて竹籠の必要性も変わって当然です。 水俣には籠を使う文化が残っているとは言え、昔ほどでは無くなっているのも現実です。 実際、日本から籠職人がこのように消えてしまったのも、多くはそれで生計を立てていくのが困難になったからです。 師匠が、「昔はよう籠は売れよったが、安いプラスチック製品が出てきて売れんごてなったもんなぁ・・」と、つぶやくのを、私もよく聞いていました。 しかし竹籠には、プラスチック製品には無い水切りの良さ、また、抗菌作用による保存効果もあります。 そして籠は、化学製品と違って最後は何の害も出さず、そのまま土に還る存在です。 職人の手によって人の暮らしの「道具」となった竹は、その家庭で数世代くらい働いた後、やがて自然に戻ります。







 
 生活の道具を編むとき、農具であれば土の匂い、漁具であれば海の匂い、そしてそれらを使う人の暮らしが浮かびます。 どこか根っこの存在感が感じられるような籠を編めたらと願います。 また、そのような農具・漁具ばかりでなく、都会の生活に合ったインテリアとして使えるような籠の注文もあり、それはそれで好きです。 将来自分の編みたい籠がどんなものになっていくのかよく分からない、というのが正直なところです。 しかし自然の竹と向き合い、それを注文された「籠」に姿を変えることができる腕の良い職人、そんな手を持つカゴ屋さんになることが私の願いです。





ご飯じょけ




 余談ですが、カゴ作りの中で最も緊張するのは、竹で縁(ふち)を巻く最後の仕上げの時です。 個人的には、籐(とう)を使っての仕上げより、見た目はシンプルですが非常に難しい、
竹の「縁巻き」が好きです。 宮崎県日之影町の名工、廣島一夫さんが言われた、「竹は竹でおさめる」という言葉に、私は惹かれます。 輸入品のカゴに籐の仕上げは見られても、綺麗に竹で縁を巻かれたものを見る機会は少ないです。 粘り気のある竹を選び抜き、多くの場合、4〜6周して縁を巻きます。(→6周巻きの「みそこし」


 最後に「竹」でぎゅっと美しく収められた竹の籠は、全体が引き締まって、生き生きとした感じがします。 竹の縁巻きは、技術力のみならず計算も要し、毎回うまくいくという保証はどこにもない、とても緊張する作業です。 最後の縁巻きで失敗して、泣く泣く一から作り直し・・・なんてこともあります。 しかしそれだけに、上手に仕上がったときの嬉しさはひとしおです。 一方、その材料を輸入に頼る籐よりも、地元の山で採れる(つづら)を使った仕上げも、私は味わいがあって好きです。