田舎まわり



 その昔、竹細工職人が各家庭に泊り込みながら農村・漁村を一軒一軒カゴを編んで廻ったことを、「田舎まわり」と呼びます。13歳から弟子入りして竹細工を始めた私の師匠は、10代・20代の大半をこの「田舎まわり」をして過ごしました。先日、町境を越えた山隣りの地域で、ふとしたことから田舎まわりで師匠がよくお世話になったという家を知ることができました。そして、そこに住まわれているおばあちゃんから、師匠の昔話を聞く機会に恵まれました。

 そのおばあちゃんは大正最後のお生まれで、昭和22年に彼女がご長男を出産されて間もなくの頃、師匠はそこの家庭を拠点にしてこの地域での「田舎まわり」を始めました。寝泊り・食事・洗濯でお世話になったのはもちろんのこと、風邪をひいて仕事ができないときなどは、師匠は一日中ゆっくりと家で休ませてもらったそうです。当時まだ小さかったその息子さんも師匠によくなついていたらしく、師匠が片道歩いて1時間以上はかかる別な山の集落に泊りがけで仕事に出かけるときは、彼はまだ小学校に入る前なのに、松葉杖で歩く師匠を気遣ってか、自分で道具袋を抱えてその村まで師匠にお供してくれたとか。(その後、彼は山の中を一人で歩いてまた家に帰ってきたそうです!) 師匠も自分の息子をとても可愛がってくれたと、おばあちゃんは懐かしそうに話してくれました。

 下は、そのおばあちゃん宅の軒先の写真です。師匠はここに筵(むしろ)を敷いてカゴを編んでいました。寒い冬の時はとても辛かったろうと思いますが、かつて師匠の奥様が私に「今のカゴ屋さんは幸せばい。家の中でカゴを編めるから」と冗談で言ったように、昔のカゴ屋はどんなに寒くてもこんな風に軒先でヒゴを取って仕事をされました。 ここに座って師匠はカゴを編んでいたのか・・と、その頃から変わらない石垣の棚田の風景を前に、私は何とも感慨深くなりました。






 師匠は早くに両親・祖父母・兄弟全員を亡くし、小学校を卒業する時はすでに自分の腕一本で生きていかざるを得ない状況にありました。そんな中、「田舎まわり」の途中にふと立ち寄って休めるところ、何より家族のように自分を温かく受け入れてくれるところ、そういった場所を持てたことは、師匠にとってどんなに心強かったことだろうと思います。

 下写真は、そのばあちゃん家族のために師匠が編んだ籠たちです。「一斗じょけ」や「フタ付きの浜てご」、「茶碗てご」に「梅干バラ」などなど、おばあちゃんは今も師匠の籠を大切に取っておいてくれました。これらは今から約60年前、師匠が10代後半の頃に編んだものです。






 そのおばあちゃん宅から少し道を下った別な知人の家で、今度は他のカゴ屋さんが編まれた昔の籠を見せてもらいました。特に珍しかったのは、下写真の「いないメゴ」と呼ばれるもの。「担う(になう)」ことを「いなう」と言って、両天秤でバランスを取りながら肩で担って(いなって)米を運ぶのに使われました。梅干バラのような浅いザルを上にかぶせるのが特徴で、担っている時は紐でギュッと固定されるので、このフタがずれ落ちることはありません。

 これを作られたのは師匠より30歳ほど年上のカゴ屋さんで、その方は成長ホルモンの関係からか小人症でした。足が不自由だったり耳が聞こえなかったりと、その昔この辺りの竹細工職人は皆そのような事情を持った人ばかりでした。そんな方たちが綿々と技を受け継いでこの地域の生活の道具を編み続けてこられたこと、私はあらためてカゴ屋の仕事を誇りに思います。






 ところで水俣の「メゴ」は、これよりも高さが低く、底を四つ目に穴を開けて編むのが一般的です。担って使われたりもしますが、一個だけで芋を洗ったり、洗濯物を川で洗ったりするのにも使われました。一方、上写真の「メゴ」は、底の目をきっちり詰めて深く作り、そして更にフタを付けるという手間のかかったものです。かつて遠い不知火海の漁村から、これに魚を入れて売りにも来られたそうです。師匠からこんなフタ付きのメゴもあったよと話は聞いていましたが、私は実際にそれを見るのは初めてでした。天秤棒は樫の木、ヒモは棕櫚(しゅろ)で編まれています。

 上のメゴを編まれた方は、「キゾどん(キゾさん)」とみんなから呼ばれていました。他の籠も色々見させていただきましたが、特に「しょうけ」の丸の形を作るのがとても上手な方でした。「キゾどん」は生きておられれば今は110歳。技術の高さはもちろんのこと、師匠をはじめとする昔のカゴ屋さんの生き様に私はいつも圧倒されます。