一斗じょけ  



 昨年の12月にも書きましたが、ここから少し離れた標高の高い山境のところに、昭和49年にようやく電気が来たという山深い集落があります。そこの最後の住民として、昨年の夏までずっとお一人で暮らされていた大正生まれのおばあちゃんがおられます。現在は老人ホームに入所されていますが、先日外出許可を頂いて家に帰ってきてもらい、そこで色々と話を伺ってきました。



 家の裏側の竹林の山肌が削り取られ、そこから出る湧き水が彼女の生活用水となっていました。その掘り出された土は、そのまま炭焼き窯を作るのに使われています。9歳の時から子守奉公に出て家計を支えてきたこと、産まれた子豚13匹をリヤカーに乗せて街まで下ったものの大したお金にならずがっかりしたこと・・などなど、懐かしさのせいか次々と話される彼女の思い出話に、私はすっかり釘付けとなりました。





 昭和52年に亡くなられたという彼女の夫は、私の師匠のそのまた師匠の従兄弟にあたる方で、彼ご自身もカゴを編まれました。おばあちゃんは、彼が編まれたという「一斗じょけ」を小屋から取り出して、もう自分には用は無いからと、私にプレゼントしてくださいました。下写真は、丁度私が地元の注文で一斗じょけを編んでいたので、それが完成したところで一緒に並べて撮ったものです。(左が彼女から頂いた「一斗じょけ」で、縁の一箇所の色が変わっているのは、竹がはじけて切れていたのを私が修繕したためです) 






 彼女から頂いた「一斗じょけ」には、単に飴色になった美しさを超える迫力を感じます。それは、このザルが長年道具として彼女の暮らしを支えてきたという事実があるからで、一本一本丁寧に面取りされたヒゴには、その生活が染み込んでいます。



 山では、それまでホームで見かけていた感じとは全く違う彼女を見かけました。久しぶりに家に帰った途端、彼女はきびきびと動き出し、あれやこれやと家の中の整理を始めます。それは、明らかに彼女がここに住んでいた証でした。洋服が汚れるのも構わず、畑や山道をずんずんと案内がてらに歩き周ります。そして、地蔵さんの祠では、汚れてしまったお供え用の茶碗を何のためらいもなく素手でごしごしと洗い始めます。正直自分には、その時ちょっと手が汚れるな、足が泥だらけになるな、という戸惑いが「一瞬」ありました。しかし彼女には、そのワンクッションがありません。余計な思考を通さず、昔からただそうであったように彼女の身体は純粋に動きます。






 東日本大震災から一ヶ月以上が経ちました。復興への道もいまだ遠く、原発問題もなかなか先が見えません。ここ遠く離れた九州でさえ、どこか落ち着かない日々が続きます。当たり前の日常生活を心懸けるもラジオで緊急地震速報が流れる度、カゴを編む手がびくっと止まります。普段の暮らしがとてもありがたいことを痛感しますが、一方またそれ以上に自分の足元が問いかけられている気もします。そんな中、私はこのおばあちゃんに惹かれ、頂いた「一斗じょけ」の存在感を強く感じます。それは果たして何だろうかと考えています。