一斗じょけ2



 地元の味噌屋さんから、年に1〜2度、「一斗じょけ」を5個ずつ頼まれます。重なりやすくするため、横から見た形がすり鉢状になるよう、通常と違ってわざと膨らみを入れずに作ります。全くの実用本位で、本当にシンプルな使いやすさと丈夫さだけが求められます。そもそも、この「一斗じょけ」の注文は、水俣の最長老の職人さんが長年ずっと担われてきたものでした。引退された後は自分が引き受けているものの、役不足ではないかと、私は未だに不安を持ちながら作っています。







 先日、久しぶりに最長老の職人さんに会ってお話をさせてもらいました。その昔、竹細工職人は、一日に「一斗じょけ」を2個作って一人前と言われたそうです。朝7時くらいには仕事を始め、少なくとも昼までに2個分の材料全てを取り終わり、うち一つは、巣作り(縁を仕上げる手前、編むことだけを全て終わらせること)が終わっていることが条件だったとか。昼飯も早々に、午後にはもう一個の「巣作り」を行い、そして仕上げの縁巻きを両方とも終えて、ようやく「一斗じょけ」を2個、何とかその日のうちに完成させたそうです。


 ここ水俣では、「一斗じょけ」の値段は、「かれてご(背負かご)」よりも安いです。 「かれてごと一斗じょけ、作るのはどちらが難しくて大変ですか?」と尋ねたところ、「そりゃあ、一斗じょけの方だな」と、彼は答えられました。何の変哲もない単純なザルですが、そんな「しょけ作り」の報われなさに、私は強く共感を覚えます。

 


 

 上写真は、先日見せてもらった、別な地元の方が使われている「一斗じょけ」です。最長老の職人さんが、20年くらい前に作られたそうです。これを手にとった瞬間、私は思わずため息が出ました。それは、単に自分の技術的な至らなさからではなく、職人として貫かれた彼の生き様に、私が直接に触れた思いからです。結局、私の竹細工は、それを少しずつ確かめている作業なのかもしれません。そういった意味で、自分にとっての籠作りは、それ自体が目的なのではなく、今は一つの手段であるようにさえ感じています。