カゴ作り  



 カゴ作りに行き詰ったとき、最近はよく、宮崎県日之影町の92歳の職人、廣島さんを訪ねては力をもらいます。技術的なことはもちろん、彼自身の生き方から、私は多く感じ入るところがあります。そもそも彼の竹細工を知ったことが、私がこの道に入ったきっかけでもありました。以下は、拙い私自身が勝手に、現時点で自分なりに感じていることです。




 良いカゴを、更に良いカゴを・・と求めていくとき、完全に納得するものは決して得られないような気がしています。人間の手(指)の仕事である限り、いつも同じわけにはいかないということ、そして何より、同じ真竹であっても、竹一本として同じものが無いからです。同じ山の竹であっても、一本一本使い勝手は違うし、そしてまた、その同じ一本の竹でも、節の高さ・曲がり具合などなど、部分部分によって全て違います。そして結局、カゴ作りは、そのように一つ一つ違う竹を見極めながらの、生身の人間の手仕事でしかありません。先日、私がヒゴを取っている作業を見られたお客さんが、「流れ作業ですね」と言われたことがありました。しかしヒゴ一本とは言え、私にとっては全て違うので、自分の中では同じ作業をしているという感覚は一瞬もありません。同じ籠を編むのであっても、常に新たに違う竹を相手にしている感じです。


 最近は、カゴ作りに行き詰まるときが多くあります。どうしてもどうしても自分の中で納得がいかず、悩んで一からまたやり直し・・・・をしても、結局またうまくいかず。そんなことがずっと続くと、もう憔悴しきって、自分の手が動かなくなってしまいます。それでも私は、廣島さんの、ここまでされるのか・・と驚くほどのこだわりに、いつも驚嘆します。たった一つのザルにさえ、そこまで籠められる思い。「相撲取りが、全身全霊をかけて一番を取り終えて、肩でハァハァ言うような・・・たった一つのザルの縁巻きも、そんな感じの真剣勝負じゃの。」 「俺の性根が勝つか、カゴの性根が勝つか。俺とカゴの勝負じゃ。そして、俺の性根がカゴの性根に負けるくらいにならなくてはいかん。そうなれば面白いの。」 以前、直径1mの「茶ベロ」を編んだとき、私はあまりの緊張感の連続に、ある日の夜そのまま竹クズの中で寝入ってしまったことがありました。体はへとへとに疲れきって、そのときの感じを思い出しています。


 美術品なら、一個作って50万、あるいは100万円・・ということもあり得るかもしれません。しかし、青竹の道具はそうはいきません。「ご飯じょけ」の柄を握ってポンと机の上に置かれ、「どんなに時間をかけて、どんなに手間をかけて、どうあがいても、所詮、これは『めしカゴ』じゃ。」 「カゴ作りはつらいの。ヒゴを一本一本こうやって丁寧に並べていく・・こんなすごいことが簡単にできるはずがない。職人の仕事は、割りに合わんの。」 


 一方、「竹は自然のもの、無理なものは無理。」と、スッと抜けたような、そんな軽やかさに憧れます。ご飯じょけのフタ。「所詮、作りの繊細なフタは、下のザルの一生に追いつかん。ザルの一生にフタは二回編んであげる必要がある。竹じゃけん、壊れたら、また作ればいいんじゃ。」
 所詮カゴは道具、いつかは壊れるものだし、そうしたらまた修繕してあげれば良い。私はもっとしなやかになりたいです。