籠職人2  




 先日、私の師匠の奥様の幼なじみだったという方と、お家を訪ねて話す機会がありました。 ここから車で1時間弱、隣町の山村に暮らされていて、その彼女の夫Mさんは、師匠と同じく竹籠職人でした。  以前から彼のことは伺っていたものの、今回は色々と詳しく話をお聞きすることができました。


 Mさんは大正13年のお生まれ。 今から約13年前、享年77歳で亡くなられました。 終戦後、山仕事中にヨキ(斧)で負傷して片足が曲がらなくなり、親戚の籠職人に弟子入りして竹細工を始められたそうです。(彼の師匠にあたる方は、以前にも書きましたが「キゾどん」と呼ばれ、明治時代のお生まれ。 身体が不自由だったものの腕は確かな職人で、しょうけの丸の形を作るのがとても上手な方でした。)


 私はてっきり、Mさんはご自宅で仕事をされていたと思っていました。 しかし驚いたことに、Mさんは、昔から「田舎まわり」をずっとされてきたとのこと、そしてそれは、70歳を超えても続けられたそうです。 一軒一軒、農家に泊まり込んでカゴを編んでまわり、注文が多い時は、その家庭に何日もお世話になったとか。  ちなみに、私の師匠が「田舎まわり」をしていたのは、昭和30年代初頭までです。 高度経済成長時代に入り、そんな仕事形態は、もうとっくに日本から消えてしまったと私は思っていました。 しかし彼は、平成になっても、その仕事スタイルを変えずにおられたのです。 そのような職人仕事が平成の時代まで続いていたこと、そしてまた、職人を家に泊めてカゴをお願いする農家の方たちも、いくら山深い農村とは言え、少なくともほんの20年位前まではこの地域に存在していたこと。 その事実に、私は感動しています。


 




 上写真は、彼女のご自宅に残っていた、Mさんが作られたという、「五升じょけ」と「ご飯じょけ」です。 「ご飯じょけ」は、蓋がかっぷりと見事にはまり、内側には米粒がまだほんの少し残っていました。 もう何十年以上も前に作られたとのことで、深い飴色になっています。 いつも思うことですが、昔の職人の籠は、迫力が違います。


  山の麓の村々を、不自由な足で、山道を越えて歩いて訪ねまわったそうです。(帰りは、車で村の人に送ってもらうことが多かったとか)  道具袋に着替えをたくさん入れて持って出かけ、親戚の家が近くにあるときは、そこで洗濯をさせてもらったりもしたそうです。 奥様いわく、例えば2週間ほど仕事に出かけて留守にして、帰宅後、何日か経てば、すぐにまた出て行ってしまったとのこと 。時々は自宅に残って注文の品を作ったりすることもあったそうですが、一年のうち大半は、村々を回って仕事をされていたそうです。 なので、結婚してから亡くなられる何年か前まで、二人の生活はほとんど別々だったと、奥様は笑って話されました。
 



 

 上写真は、近隣の学校の先生が撮ったという、ご自宅でのMさんの仕事風景です。 撮影日は1994年8月20日とあり、片口じょけを編まれています。 8月は、まだ新しい竹を切るには季節が少し早く、このように田舎まわり先の農家が保管する竹が枯れてしまっている時期は、Mさんご自身が前年に近くの山で切ってストックしていたものを使い、そうしてご自宅で注文の籠を作って仕事をされたとのことです。 この時Mさんは70歳、まだまだお元気で、竹の時期が良くなると、また田舎まわりに出かけられたそうです。






 Mさんが作られたという、古くなった「めご」を、記念に奥様から頂きました。 「めご」とは、一つだと野菜を洗ったりするのに使われますが、天秤棒の両端に紐で括りつけ、二つで肩に担って使われたりもしました。 上写真、左はMさんが作られたもので、右は、私の師匠が作ったものです。 どちらも数十年以上は経過しており、畑などで遠慮なしに荒っぽく使われてきました。 こうして並べてみると、同じ「めご」とは言え、それぞれに職人の違いが微妙に表れていて面白いです。 ちなみに、師匠が「田舎まわり」をしていた地域と、Mさんが回られていたところは、一部重なっています。 おそらく、お互いにその存在を知っていたと思いますが、同じ村であっても、うまく棲み分けて仕事をされていたのだろうかと推測します。
 

 Mさんも師匠も、ともに足が不自由だったにもかかわらず、「田舎まわり」で腕を鍛え上げ、竹が無くては生活が成り立たない時代を、籠職人として生き抜かれました。 Mさんがお亡くなりになったのは平成13年、私が水俣に来てまだ独立する前の時でした。 もしそのとき彼のことを存じていれば、ぜひともお会いして色々と話をお伺いできたのに・・・と、今となっては悔やまれてなりません。