水俣といえば、「水俣病」を想像する方も多いかもしれません。 水俣病については、私は学校で習った程度の知識しかなく、実際ここに住み始めるまでそれほど意識したことはありませんでした。




水俣湾



 水俣病とは、かつて世界に類を見なかった化学公害のこと。 工場排水中のメチル水銀に汚染された魚貝類を摂取することで発生した、有機水銀中毒です。 原因企業であるチッソという会社は、当時の日本の高度経済成長を支えた国内有数の化学会社でした。 日本が経済発展を遂げた裏側でこのような悲しい歴史があり、一方、この経済成長を経て、現在の我々の生活があるのも事実です。 そんな中、多くの竹細工職人は、このプラスチック製品の普及によって生計を立てることが困難になり、次第とこの日本から姿を消していきました。 私の師匠によれば、その波を真っ先に受けたのは、まずは桶職人だったそうです。 プラスチック製のバケツが登場し、桶職人は竹細工職人よりも早くに消滅したそうです。


 一方、皮肉なことに、水俣病を経験したこの地で、竹籠作りの技術、またその生活文化が受け継がれているということに、私はどこか象徴的な意味を見出します。 当時私が水俣を初めて訪れたとき、竹細工で生計を立てている職人が、私の師匠含めてまだ三人もおられました。 昔ながらの生活文化が途絶えないように、ここで農具や漁具などの籠を編んだり、昔の職人の籠を修繕したりすることは、どこか意味があることなのかもしれないと感じます。




うなぎてご                                   キビふるい



 
水俣に竹の生活文化が残されている理由として、むろん師匠のような職人たちが地道に籠を編み続けてきたことが一番大きいのですが、一方また、この辺りの地理的要因も関係していると思います。 水俣といえば、海を想像される方も多いかもしれません。 しかし実際は、山が海岸近くまで面しており、多くは平野部の少ない山間地です。 私が暮らすところも、川の上流部に点在する山間の集落です。石垣を積み上げてわずかな土地を利用する棚田や畑の耕作では、大規模な農業経営は難しく、おのずから人間の手に頼らざるを得ない農作業が多くなります。 従って、大型機械よりも、手を使う「農具」としての竹籠が活躍する場面が大きいのでしょう。