昔の話


  
 山深い集落に暮らされているおばあちゃん達からの注文が続いています。以前、ここから少し離れたある山に住んでいるばあちゃんにカゴを編んだことがありました。二ヶ月ほど前だったでしょうか、そのカゴを見たという別な山のばあちゃんが、自分にも作ってくれと電話をくださいました。で、そのばあちゃんにカゴを編んで持っていくと、今度は更に別なばあちゃんがそれを見て自分にも・・ということになり、そんなこんなで今も話がつながっています。(私の感覚では、ばあちゃん同士は互いに住む地域は違うものの、同じ山奥ということで、結構知り合いや親戚が多かったりするように思います。) 

 ばあちゃんは、「○○さんのところであんたのカゴを見たばい。しょけば編ますとかな?」「この辺りはもうしょけ作りはおらんごてなってね」「以前は出水(鹿児島)辺りからも売りに来らったけど、最近はいっちょん(全然)見かけん」「田舎にはやっぱりしょうけが必要ばい」などと言われて、私に注文をくださいます。ありがたいことです。ちなみに、「かれてご(背負いカゴ)」や「一斗じょけ」のようなザルを頼まれる場合が多いです。

 編んだカゴを届けに行くとき、私は必ずそのばあちゃんに集落の昔話を尋ねます。大体みなさんは昭和一ケタ生まれの方たち。その家にある昔のカゴを見せてもらったり、あるいは、この辺りに竹細工をする人はいたのでしょうか?・・などを聞いてみます。すると、自分が知らなかっただけで、結構昔はあちこちの山にカゴ屋さんが居られたことが分かりました。その方も師匠と同じく足が不自由だったりして、会ったこともないのに私は勝手に愛着を感じています。

 下写真は、今回の山奥つながり(?)の最初のきっかけとなった、以前ばあちゃんのために編んだカゴたちです。「かれてご」と「五升じょけ」、そして豆ちぎり用に作った特大サイズの「腰てご」です。(肩からかけられるように棕櫚の紐をつけています) 先日、御礼がてら久し振りに彼女のところへ顔を出したら、カゴたちはすっかり飴色に変わっていました。







 そして、そのばあちゃん宅で、「いないメゴ」のフタを見つけました。(天秤で担うことを、いなう、と言います) 下本体はボロボロになったとのことで残念ながら捨てられていましたが、下写真のように、フタだけはまだ残っていました。縁巻きが、とても上手に仕上げられています。

 「いないメゴ」は、米を運ぶのに使われました。写真手前のフタが大きい方は直径が17寸(51cm)あり、かなりの量の米を入れることができたそうです。ちなみにそのばあちゃん自身はこれを使われたことが無く(もう既に精米機が各家庭に普及し始めていたので)、従ってこの「いないメゴ」は、彼女の母親(明治生まれ)世代の方たちが使われました。聞けば、そこから3キロ程川を下った地域に精米小屋があり、そこまで米を担いで運んだとのこと。そして、その精米小屋は水車を動力にしていたので、このカゴは「水車メゴ」とも呼ばれたそうです。

 こうして昔のカゴを見たり、あるいはその頃の話を聞いたりするのは楽しいです。この「水車メゴ」のように、それらは明治〜大正の頃の話だったりしますが、しかし昭和一ケタ生まれのばあちゃん達にとっては、彼女たちの昔話として、まだ生きた記憶として残っています。私にとっては又聞きでしかありませんが、しかしこうやって実際にカゴを手にするとき、自分なりのリアリティを感じます。昔のカゴ屋さんの技術に驚かされ、そうして色々な思いを馳せます。






 ところで先日、カゴの注文とは関係ありませんでしたが、ある別な山深い集落で昔ながらの生活を続けられているというおばあちゃんを訪ねに出かけてきました。と言うのは、かつて師匠が「田舎まわり」でその地域に仕事に行ったことがあるという話を耳にして、ひょっとしてそのおばあちゃんは師匠の若い頃を知っているかも・・と思ったからです。しかしながら、実際に家を見つけてみると、最近まで生活されていた感じは残っていたものの、残念ながらもう誰も住んでおられませんでした。聞けば、おばあちゃんは今年の夏前までそこに暮らされていたとのこと。そして現在は老人ホームに入所されているとのことで、私はその後、ホームの彼女を訪ねて色々とお話を伺ってきました。

 そのおばあちゃんは大正11年のお生まれで88歳。昭和35年には11軒あったというその山深い集落も、電気がようやく来たという昭和49年には5軒に減り(それまでは皆ランプや発電機で生活されていたそうです)、そしてとうとう平成元年には、そのおばあちゃん宅が集落最後の一軒となってしまいました。(彼女の夫は、電気が来た数年後、昭和52年に亡くなられたそうです) そしてそれ以降、彼女は集落最後の住民として、今年の6月まで一人で生活を続けてこられました。畑を耕し、豚や鶏を養い、炭焼き窯があって・・まさに自給自足のような暮らしでした。ホームでお会いした彼女はまだまだお元気で、話をしていると、当時の様子がありありと伝わってきます。来年の春の彼岸頃、年が明けて暖かくなったら、ホームから外出許可を貰って彼女にこの家に戻ってきてもらい、そしてまた色々と話を聞かせていただくことになりました。

 ちなみに、そのおばあちゃんの夫は、私の師匠のそのまた師匠の従兄弟にあたる方だった、ということが分かりました。なので彼女は、私の師匠の弟子入り時代をご存知でした。師匠の師匠だった方(大正7年のお生まれ)は非常に厳しかったらしく、師匠はくじけそうになったことがあった・・なんてことを私は初めて聞きました。当時僅か13歳か14歳、その時すでに一人で生きていかざるを得なかった師匠の心中を思うと、何とも言えない気持ちです。






 弟子入り時代、私は師匠のそばにいて、その言葉とか生活ぶりとか、師匠から「昔の匂い」をよく感じました。子供がいなかった師匠は、特に若い世代の空気が暮らしの中に入ってこなかったというせいもあったのかもしれません。小学校を出てすぐ竹細工の道に入った師匠は、おっど(俺)は字もよう書かん、と言ってましたが、しかしそれ故の本能的な勘というか、私が頭でっかちで考える思考パターンとは全く違うところを師匠に感じてました。

 私が惹かれるのは、そういった合理的な考え方では解決できない、生きるたくましさみたいなものかと思います。文字や文献などに残らない、その時代に生きてこられた生の人間の感覚や思い。大地に根が張った強さは、農業・林業・漁業、そしてこういった職人の手仕事など、自然を相手にすること全般に共通しているのかもしれません。「昔の話」は、私にとって自分と途切れたものではありません。すぐ先には師匠の竹細工があり、そしてそれは、現在の自分にもどこかつながってくれています。





 今月の5日で、カゴ屋生活が12年目に入りました。先日地元の方から、芸術的な創作カゴを作ってみたら?なんて話を勧められました。しかし、こんな感じのおばあちゃん相手の仕事の方が私にとっては心地よいです。とは言え、先の大正生まれのおばあちゃんのように、いつかは昭和一ケタ世代の方たちも現役を退かれる時がくるのでしょう。そうしたら、ここ地元の注文の様子も変わってしまうかもしれません。でもその時はその時、今は自分が感じる感覚そのままにやっていけばよいと思っています。

 上写真は、そのばあちゃん達の注文で編んでいる「かれてご」です。完成後、これを届けにいくのが楽しみです。山奥の集落は、初めて訪ねる者は怪しまれてなかなか話が深くできません。こうして注文をもらってそこのばあちゃん達と知り合いになれるのは、嬉しいカゴ屋の特権なのでしょうね。