二斗じょけ  



 「二斗じょけ」を3つ作りました。直径2尺の特大ザルです。焼酎蔵からの注文で今までに17個作って納めていましたが、今回の3個で計20個となり、これでいったん注文は終いとなりました。このような大きいザルは、米を入れると重くて抱えきらずに引きずることもあるので、底が傷まぬよう裏に補強の竹をはめ込みます。






 水俣ではザルのことを、「しょけ」とか「しょうけ」と呼びます。地味で素朴で飾り気が無くて、私はこんなシンプルなザルが好きです。「しょけ」は、地元のばあちゃん達にとっては暮らしの中で当たり前にあるものでした。荒っぽく使われて、そこには何の余計な気負いもありません。竹細工職人は、かつて「しょけ作り」とも呼ばれました。




 でも作る側にとっては、この「しょけ」が一番難しいです。たぶん、自分が一生をかけて取り組む相手というか、そんな感じさえしています。スイカを水平にすぱっと切ったような半球形を、色々な角度から総合的に形をイメージして編んでいきますが、しかし決していつも思い通りにはなりません。二斗じょけの骨ヒゴは、私の場合は身・皮セットで計19本。(8本+3本(止めへぎ)+8本) 編む時の手の押さえ具合や輪の内側に入れるタイミングなどで、深みや形が容易に変わります。




 そして、更に難しいのが「しょけ」の縁巻きです。二斗じょけは、3寸8分の間隔で竹を差し込みながら全部で7周しますが、1周するのに使う竹の長さは2.5m以上。なので、全部を巻くためには約18mの長さが必要です。

 下写真は、竹を6周して残りあと1周・・という時点で長さが足りなくなり、新しい縁巻き竹を継いで巻き終わったところです。7周目だけ色が変わっているので、ちょっと面白いと思って写真を撮ってみました。(やがてすぐに色が落ちて一緒にはなりますが) 最後の周を巻く時は、1周目の下に竹を潜り込ませるので負荷がかかって割れやすく、非常に気を遣います。「二斗じょけ」は大きいので力も要し、たった一個の縁を巻くだけで私は疲労困憊してしまいます





 二斗じょけの納品時、私が昔に編んだものを見せていただきました。左の「しょけ」は一年前に編んだもので、右側のたくさん並んだ「しょけ」達は、5年ほど前に編んだものです。これら5年前に編んだものは、今見ると色々粗いところがあって、正直とても恥ずかしかったです。とは言え、こうやって実際に働いている現場を見ると、見た目へのこだわりはあまり本質とは関係ないのかな・・とも思ったり。いずれにせよ、何年も使われた後の姿を見るのは良い勉強になりました。




 弟子入り時代のある出来事を思い出しました。その昔、師匠の姪にあたる方が訪ねに来てくれたことがあります。コタツに入って皆で色々と雑談をしていた時、「叔父さんのカゴは綺麗だもんねぇ」と、その姪の方が私に言われました。すると、それを聞いた師匠が、「おっどのはそがんとじゃなか(自分のはそういうものではない)」と、少し俯き加減でぼそっとつぶやいたのです。普段無口な師匠からそんな言葉が出るなんて・・と、すぐ側でそれを聞いた私は内心かなり驚きました。その声は小さすぎて、彼女の方には届かなかったと思います。単なる謙遜からなのか、あるいは実用品を作ってきた職人としての自負からなのか、とにかく私は師匠の内面に一瞬鋭く触れた気がして、どこか動揺したのを覚えています。

 しかしそれは、自分が生きていくためにこの道に入った師匠にとって、何の気負いも無いごく自然な感情の吐露だったと、今になっては少し分かる気がします。「おっどはしょけ作りで良か」と、かつて師匠は言ったことがあります。ザルは当たり前の生活道具であるという原点。そんな風にたんたんと「しょけ」を作られてきた職人の境地は、今の私にはほど遠いです。





 その5年前に編んだ二斗じょけのうち、上写真のように、内輪の竹が飛び出てしまったものがありました。こんなことは、普通に使う分には滅多に起こりません。なので、これに気づいた時は本当にびっくりでした。目に詰まった米粒を取り除くためガンガンとザルを叩いて振動させるうち、少しずつ少しずつ、内部の竹が時計回りに回転して隙間から頭を出してきたのです。今の私が作るザルは、内輪の重ねる向きを考慮した上にかつ竹釘で固定するのでそんなことは起きませんが、しかし荒っぽく使われる生活の籠は、このように竹の素性が全てあらわになってしまいます。普通のザルであるが故にまず丈夫でしっかりしていること、そのことを思い知らされています。