私は昭和44年生まれ、出身は神奈川県です。以前は竹細工と関係の無い仕事に就いていましたが、26歳の時にそれまで勤めていた会社を退職し、インドに渡航して現地NGO主催の農村開発プログラムに参加しました。そこで、辺境の地に暮らす自給自足的な生活をしていたある部族の人たちを知りました。彼らは政府が定住化政策で住居を与えても決して山を離れようとせず、自分たちの伝統的な生き方を貫いていました。週に一度どこかから降りてきて、自分たちの編んだ籠を村のローカルマーケットで日用品と交換し、そしてまた山に戻っていくという生活を続けていました。籠のことは当時意識しなかったものの、しかし援助問題に疲れ始めていた自分にとって、彼らの誇り高い生き方は印象強く自分の心に残りました。




インド・オリッサ州内陸部にて撮影(1996年)




 
1年半後に帰国、一旦は政府系援助機関に就職しましたが、すっきりとしない自分がいました。ある時、日本のサンカと呼ばれていた人たちの存在を知りました。戦後しばらくまで日本に存在していたという、箕や竹籠を編む山間の漂泊民です。それまで全く忘れていたインドの部族の記憶が、サンカの人達と繋がりました。もともと職人の手仕事に憧れを持っていた自分にとって、それ以降「竹籠」が、頭の中から離れなくなりました。





箕作り職人




 
その後、再び職場を退社して、竹を編み続ける職人を探しに出かけました。主に西日本を回り、ここ水俣で現在の師匠と出会うことができました。当時、水俣には現役のカゴ職人が三人もおられました。町場、温泉湯治場、そして山間部と、それぞれの場所で昔の竹細工を受け継いで来られた方たちでした。



 一方、日本各地の職人を訪ねる中、私は竹細工の歴史の重たさにも触れざるを得ませんでした。地域によっては、竹細工という職業は同和問題とも関係したり、またここ熊本では、竹細工と言えば、一昔前は体が不自由な人の職業でもあったりと。 私が弟子入りして間もない頃、あるおじいちゃんから「あんたは五体満足なのに、何で竹細工なんかするんかね」と、真顔で尋ねられたこともありました。しかし私は、私の師匠含めて、地道に人々の生活の道具を編んでこられた全ての籠職人の生き方、またその手の技を尊敬しています。そしてそれらを受け継いで自分の籠にするとき、私は彼らと繋がってくれるような気がします。






うなぎカゴ