地元の方から古くなって傷んだ籠を持ち込まれ、「これの修繕は出来っとかい?」と尋ねられることがあります。 もう何十年以上も前に編まれたであろうその籠は、人の手によって使い込まれ、「道具」としての役目を十分に果たしてきた貫禄と、一種の安堵感を感じさせます。  「ちっとばかし壊れるように作らんば、カゴ屋は儲からんよ(笑)」なんて冗談を言われたりもしますが、道具としての籠は、丈夫であっても、やはり使われるうちに壊れたりします。 しかし修理をすれば、また使い続けることが可能な場合も多いのです。 




傷んだ縁(ふち)を、新たに巻き直した「芋洗いじょけ」。
直径17寸(約51cm)、私の師匠が数十年以上前に編んだもので、竹を7周して巻いてます。




 大量生産・大量消費の社会にあっては、ともすれば価格の安さだけが選択基準となり、道具の使い捨てが当たり前のようになっています。 しかし文字通り手間暇のかかる籠作りでは、作るのは規格品ではなく、それぞれの使い手の身に合ったものです。 使い勝手や丈夫さ、そして美しさが選択基準となり、この部分をこうしてくれとか、修理をしながら長い間その使い手の用となるものです。 かつて村や町場にカゴ屋さんが多く残っていた頃、作り手と使い手は、そんな風にお互いの顔が見える関係でした。




戦前の職人さんが編んだ、特大の米上げ笊。縁(ふち)を巻き直し、補強のために底面からの竹を巻きつけました。




 一方、職人の手によって姿を変えた竹は、それでも、いつかは朽ち果てる存在です。 籠としての役目は永遠のものではありません。 ただ、それは消えるというよりも、再び自然に還(かえ)っていくものなのだと思います。 必要であれば修理をして、普通に使っていただければ、少なくともその家族の数世代先くらいまで、竹は充分に人の暮らしの中でお付き合いをすることができると思います。


 籠は、人間の手で使えば使うほどに、その味わいと風格を増します。 百年以上も前に編まれたというカゴの修理を頼まれたこともあります。 古い籠の修繕をしながら編みほどいていく時、それらを編んだ昔の職人の気持ちが伝わります。「この辺は苦労したな」とか、「ここはちょっと手を抜いたな(笑)」とか。 そうして新たに修繕して生まれ変わった籠は、青々しさと深いこげ茶色が同居し、再び道具としてもう一頑張りしてくれます。