水俣の竹職人
1999年、私がはじめて水俣を訪れたとき、ここではまだ3人の竹職人が現役で活躍されていました。 私の師匠と最長老の職人さん、そして、山間部でカゴを編まれていたMさんです。 Mさんには弟さんがおられて、その弟である柏木健次さん(ご家族の同意のもと、ここでは本名で記させて頂きます)は、5歳の頃に家業の竹細工を始められました。 小学一年生でヒゴ取りを完全にマスターし、そして10歳の時には、もう大人と一緒に売り物のカゴを編んでいたそうです。 生前Mさんからは、「自分の弟は腕がとても上手だった」、と伺っていました。 しかし19歳で水俣を離れて関西に移住されたとのことで、私の中ではそこで彼の話は終わってしまいました。
先日、私あてに突然に手紙が届きました。 それは、その関西在住の健次さんの娘さんからでした。 お父様は現在87歳、嬉しいことに今もご健在です。 色々とお話を伺っているうちに、かつて師匠たち職人と対話していた当時の自分の感情が、懐かしさとともに湧き上がってきました。
下写真は、彼が11歳のときのものです。 この頃は学校の先生や友達から頼まれて、一つ50円くらいで弁当箱を作っていたそうです。(左の三段物は、他からの注文で、しょけほどではないものの、時折注文があって作られていたそうです) この模様を作るのは小学生の彼が得意とされていた仕事らしく、キキョウなど色々な花の柄を編んでいたそうです。(ランドセルも自分で竹で作られたとか) 当時はどんなカゴをよく編んでいたのですか?と尋ねると、この重箱以外では、かれてご(背負い籠)やウナギてご、イチゴ籠、そして片口じょけ、丸じょけ、飯じょけ・・、とのことでした。 片口じょけは、2尺6寸・2尺8寸・3尺(90cm!)の三つ組を、よく作られていたそうです。
健次さんは水俣に帰省される際、さっと自家用のしょけを作っては、関西のご自宅に持ち帰られたそうです。 娘さんいわく、あるとき飴色だった家のカゴが、突然に青色の新品に戻った記憶がある、とのことでした。 下写真は、今から約20年前に健次さんが作られた、しょけ達です。 定年退職後、関西の地元の竹山近くで一か月ほど倉庫を借りて、これらを作られたそうです。
そして、健次さんのお父様、貞喜さんもまた名人でした。 明治30年のお生まれで、かつて何十人と弟子を取られたそうで、戦前は水俣実務学校(今の水俣高校)で竹細工の講師もされていたとのこと。 下写真は、健次さんの兄Mさんと一緒にカゴを作っているときのもので、飯じょけは、一日に3個(!)も作られたそうです。
下写真は、その明治生まれの貞喜さんが作られた、飯じょけです。 直径一尺くらい、私はこれをはじめて手にしたとき、その繊細な作りに言葉を失った記憶があります。 ちなみに貞喜さんと、私の師匠の師匠の師匠は、同じ人に弟子入りして竹細工を習った、兄弟弟子の関係にあたります。 (貞喜さんの方が、兄弟子です)
今年は戦後80年と言われ、戦争を肌感覚で語れる人が少なくなったと耳にします。 竹の世界も同様で、かつて「しょけ」が当たり前にあった時代を直接に知る職人は、もうほとんどおられなくなりました。 私が弟子入りした頃、水俣にはまだそうした竹の暮らしの匂いがありました。 しかしここ数年は、もはやその残り香さえ消えつつある気がしています。 そんな中、今回突然に降ってわいた繋がりは、私にとってタイムスリップしたような感じで、わくわくするやら、戸惑うやらで・・何か不思議な感覚に包まれています。
健次さんは最近、また竹に取り組まれているとのことです。 遠く離れた地ではありますが、こうやって水俣の大先輩の職人さんと今を共有してカゴを編めていること、私はありがたい気持ちでいっぱいです。 (現在の健次さんのヒゴ取り・面取りの様子です。 地域の方々に説明されています→ takeshokunin.mp4 takeshokunin2.mp4 )