図録「廣島一夫の仕事」  




 東京都文京区のギャラリーKEIANにて開催されていた、「日之影の竹細工職人 廣島一夫さんの仕事」展が、無事に終了いたしました。多くの方に足を運んでいただき、また、ギャラリーの方で企画されたクラウドファンディングにもご協力いただいて、本当に感謝を申し上げます。どうもありがとうございました。 少しでも多くの方に、廣島さんの存在がより身近になっていただければ嬉しいです。


 私自身も今回上京して、廣島さんのカゴを世に伝えるべく残してくださった中村憲治さんのご親族の方、そしてアメリカのスミソニアン博物館のルイーズ・コートさんにお会いすることができました。同博物館では、過去に生存した芸術家の作品が鑑賞されることはあっても、廣島さんのように、実際に生きている人の展覧会が行われたことは、当時において初めてだったそうです。 中村さんによって寄贈された廣島さんのカゴ達は、かつて浦賀に来航したペリーが持ち帰った日本の生活民具と同じ分類のところに収蔵されています。

 




 今回、ギャラリーの方で作成した図録が、希望者には引き続き販売をされるとのことです。ご興味のある方は、どうぞギャラリーにお問い合わせされてみてください。全部で110頁、前半は廣島さんのカゴのカラー写真、後半は関係者の証言や対談の文章となっています。価格は1,500円とのことで(送料はメール便で100円)、問い合わせはメールにてよろしくお願いします。 → gallerykeian@gmail.com




 


 生活道具としての竹細工と、美術工芸品。その違いを関係者の間で話す機会がありました。印象的だったのは、単に技術的に優れたもの、丁寧に作られたものだけでは、後世まで残る作品には成りえない、とのお話。 本当に優れたものは、不思議なことに、たとえば価値観の違う10人誰が見てもその全員が口を揃えてすごいと言い、そこに共通しているのは、ある「力強さ」だということ。 果たしてその「力強さ」とは何だろうかと、色々考えさせられました。


 一方、廣島さんご自身は、図録にも書かれていますが、アメリカでの聴衆からの質問に対して、「それが粗末なものでも、持つ人がそれに惚れ込んで、芸術品と思えば芸術品。また、どんなにすばらしいものでも、ガンタレ(粗悪なもの)だと思えば、ダメになる。持つ人の気持ちひとつではないかと思います。」と、述べられています。廣島さんの中では、両者の間に特に明確な境があったのではないのかもしれません。


 結局、あれこれ第三者の評価を気にすることなく、単純に使ってくれる人のことを考えて作るだけで良いのだろうと、今の私は考えています。私がまだ弟子入り先を探していた頃、廣島さんに初めてお会いしたとき、「美しいというよりも、良いもの。使ってみてはじめて、良いものなんじゃ。」と、彼がおっしゃっていたのを思い出します。




 先日、地元のばあちゃんから頼まれて、「一斗じょけ」を作りました。以前にも書いた、マツコバの集落で生まれ育った方です。昭和40年代前半まで暮らされていた彼女のお父様が、マツコバ最後の住民でした。電気は無く、ずっと自給自足の生活でした。 昔から慣れ親しんだ「一斗じょけ」が欲しいと言われて、今回あまり気負わずに作ったつもりでしたが、それでもこんなシンプルな丸いザルが、やはり一番難しかったです。


 職人とお客さんの関係は、単に注文を受けてカゴを渡すという一方的な流れではなく、作る側もまた使ってくれる相手から教わり、そして聞き、学び続けるという、双方向に影響し合うものだと思います。 立ち止まって記録に残すことも大切であり、その一方で、今の時代に使われ、作り続ける進行形の中に自分を置くことも、また同様に見えてくるものがあるのだろうと感じています。