ボラ籠の底




 水俣病の公式確認から50年目を迎える今月の1日、水俣病犠牲者の慰霊式が行われて私も出席しました。  私は水俣に来てまだ7年目ですが、今こうして水俣の地で竹籠を編んでいること、あらためてその意味を問い直す機会にもなりました。 今も水俣病の症状で苦しむ方はおられます。 水俣病は終わっていません。 水俣病が問いかけるものは過去のものだけでなく、この現在、そして、これからのものでもあります。


 原因企業であるチッソは、当時プラスチック製品に使われたアセトアルデヒド製造の触媒として有機水銀を使用していました。 政府の高度経済成長の政策のもと、日本有数の化学企業であったチッソは、日本のプラスチック製品の大半の需要を賄っていました。 日本の多くの竹細工職人がプラスチック製品の登場で姿を消していったことを思うとき、私はいつも、この皮肉なまでの象徴性を水俣の竹文化に見出さざるを得ません。





左が、ボラ籠の底。 なるたけ平たくするため、通常とは逆に、編みヒゴの皮側を上にして縁巻きしています。



 上写真の左、金網のボラ籠は、かつて水俣の漁師さんが使っていたものです。 直径1尺8寸(約54cm)と、2尺2寸(約66cm)の二種類があります。 蚕のサナギを粉にして麦ヌカと練り合わせ、それを団子にして籠の中に置き、夕方海に入れて翌朝引き揚げると魚のボラが入っていたそうです。


 私は初めて知ったのですが、師匠は、この地域のボラ籠の底を「竹」で編み始めた最初の職人だったとのこと。 それまでのボラ籠の底は、トタンで作られていたので泥が溜まりやすく、そのため水の流れが良くなかったそうです。 ある時地元の漁師さんが、ボラ籠の底を竹で作ってくれないかとの依頼を師匠のもとに持ちかけます。 それが、「竹」のボラ籠の底の始まりです。 後に、この竹製の底の評判はあっという間に広がり、ここ水俣のみならず、近隣の漁師さんからも師匠は一手に注文を引き受けることになります。 師匠は一時期、「ボラ籠の底専門の職人」として、他の籠を編む暇も無いほどにずっと注文に追われました。 完成した底のザルを何十枚と単車の後ろに高く積み上げ、直接に漁師さんの集落まで納品に出かけたそうです。


 しかしながら師匠は、水俣病に特有な症状で苦しむ人を、納品の際に訪れた漁師さんの集落で見かけるようになります。(師匠はまだ、水俣病との認識は無かったそうです。)  水俣病が多発したある漁師の集落には、師匠と同様に竹細工をされる方がおられました。 忙しいときは、師匠は彼にもボラ籠の底編みを手伝ってもらったそうですが、ある時、師匠がその方の家を訪ねた折、隣の家の猫が痙攣しているのを見かけたそうです。(やがてその方ご自身も、後に水俣病に認定されて亡くなられました。)
  そうして間もなく、ボラ籠の底の注文はピタリと途絶えます。 師匠にとっても大変なことでした。 しかし、「田舎まわり」で腕を鍛え上げた師匠は、再び他の生活の竹籠を色々と編み始めることでカゴ職人としての日々を歩み続けます。 そして結局、師匠はボラ籠の底を竹で編み始めた最初の職人であったと同時に、最後の職人にもなりました。




師匠がボートを係留していた水俣湾です。


 今、水俣の海はサンゴが確認されるほど美しい海に回復しています。 私の師匠が、かつて水俣の漁師さんの必需品であったボラ籠を陰で支えてきた最初で最後の竹職人であったということ。 私はそれを知って、あらためて師匠を誇りに思っています。