地元の籠2
私が暮らす集落から更に山道を上ったところ、車で行くことができる最後の場所に、権現さんのお堂があります。 その隣で神さんをずっと守られている御夫婦は、水俣市で最も標高が高いところに暮らされる住民でもあります。 私はそこを訪れる度、いつも別世界にいるような雰囲気を感じていました。
権現さんの奥様からは、以前に「かれてご(背負かご)」の注文を頂いたことがあります。 彼女ご自身はそこでお生まれになったのではなく、更に山奥にあった、「マツコバ」という集落から嫁がれてきました。 現在、その集落はもうありません。 昭和40年代前半まで暮らされていた彼女のお父様が、マツコバ最後の住民でした。 先日、彼女に案内をして頂き、ご実家があったという場所まで連れて行ってもらいました。 権現さんから山道を歩いて30分ほど、彼女に教わらなければ、ここに集落があったとは決して知り得ないところにその場所はありました。
マツコバでの暮らしの様子を色々と教えていただきました。 お父様は炭焼きをして生計を立てられ、食生活はほぼ自給自足でした。 米・野菜はもちろんのこと、肉類については、イノシシと山鳥を主に食べられていたそうです。 たまに行商人が一斗缶に入れた魚を「かれてご」で背負って売りに来たとのことですが、当時は氷もなく、新鮮な魚を食べられることはほとんどなかったと、懐かしそうに話してくださいました。 電気は最後まで無く、松の木の芯に火をつけて灯りとされていました。
桶職人やかご屋さんも、遠くこの深い山まで回ってきました。 私の師匠は、この辺りを訪れたことはありません。 尋ねれば、私の集落から数キロほど下流の村で竹細工をされていた明治生まれのクロキじぃさんが、このマツコバまで来て泊まり仕事をされていたとのこと。 また、彼女のお父様も簡単なカゴはご自分で作られたらしく、道具などの刃物類は、隣の人吉の鍛冶屋さんまで山越えをして歩いて求めに行かれたそうです。 昔の生活は、とにかくカゴが欠かせないものでした。 逆に言えば、生きることは、カゴを使うことでもありました。
上写真、屋敷の跡を写したもので、以前から生えていたという竹が更に生い茂り、また、当時の五右衛門風呂の釜が残っています。 家を離れて以来、何の解体作業・片付けもせずそのままにしてあったということですが、陶器・ガラス瓶などが多少残っていたものの、人がここに住まわれていたという痕跡は他に殆どありませんでした。 昔は人の暮らしが自然に近く、そして人間自身がたくましく、生活の主体でした。 人工物に囲まれた今の時代、家という建物が、ここまで見事に消えて自然に戻ることはないだろうと、その場所に立った私は不思議な感覚に包まれました。
かれてご、一斗じょけ、芋洗いじょけ、めご、バラ・・など、振り返れば、今年は地元の注文が復活した年でもありました。 今までより一つ下の世代の方たちからの注文も、少しずつではありますが増えています。昔のカゴの修繕も含めて、お話をいただけるのは嬉しいことです。
特に「芋洗いじょけ」は、納品すると後日それを見た別な方がまた私に注文をくださるといった感じで、有難いことに今も最初のご縁が繋がっています。
地元の注文は、生活に密着しています。畑や台所に近いカゴを編むとき、私は暮らしの匂いがしてワクワクします。 一方また、竹の道具はいつか朽ちて土に帰っていくこと、その当たり前の事実を、私はマツコバを訪れたあとに思い返しています。
上写真の「かれてご」、地元のおばあちゃんから頼まれたもので、縁の補強と足竹の取替えを行いました。 このかれてごは、私自身が10年くらい前にその彼女のために作ったものです。 直射日光に晒されて働く時間が長かったのでしょう、竹を磨いている部分は、ここまで見事な飴色になっていました。 まさかこんな姿を自分が生きているうちに見られるとは、私は夢にも思いませんでした。
これまで私は、地元の注文は多少気楽にできるものだと思っていました。 みなさん、あまり見た目の綺麗さにはこだわられず、全くの実用本位で使われていらっしゃるからです。 しかし私は、実は彼らはカゴの本質を見抜いているのではないかと、最近思うようになりました。 長年カゴと身近に付き合ってきた方たちは、手に持った瞬間に伝わる丈夫さ、あるいは使いやすさなど、もっと道具としての根本的なところを直感的に見られているような気がするのです。 逆に私は気が抜けないのだと、今はあらためて身が引き締まる思いです。
今週で、竹細工を始めて17年目に入りました。 あと3年、ようやく20年目と言える頃になれば、もう少し自分の方向性に自信がつくのかもしれないと願っています。 働くカゴの本質。そこに寄り添った仕事ができたらと思います。