かごの個性
地元のばあちゃんからの注文で、「かれてご(背負い籠)」を編みました。 今でもぽつぽつと、ここに移住し始めた頃ほどではありませんが、近隣の方から注文を頂きます。 「かれてご」は、この辺りで最も使われている籠の一つです。 自分が編んだ「かれてご」を背負うばあちゃんを見かけた時の嬉しさは、今も褪せることなく新鮮です。
下は、写真だと少し分かりづらいですが、より背中になじみやすいよう、片側に若干カーブを入れて編んでいます。 他の職人さんの籠を見たのがきっかけで、より背負いやすいだろうと、1,2年くらい前から自分なりにこの作り方を始めました。
背負う側に竹の板をはめ込むことによって、微妙な反りを作ります。 その後、カゴの胴体にぐっと食い込む程のきつさで桶の輪をはめ込み、その下に紐を通します。 この桶の輪を入れるのは水俣に独特のやり方で、針金を使用しない輪のはめ方は、私が独立した後、師匠ではなく他の水俣最長老の職人さんから教わりました。
底面をヒゴで編んで目を詰める作り方も、水俣の背負いカゴに特徴的なものだと聞いています。 師匠たちに尋ねても、「かれてごの底は、ずっと昔からその編み方だったよ」とのことで、私はこのやり方で今も編んでいます。
一般に、カゴを使う暮らしがこんな風に各地で見られなくなったのは、長い人間の歴史から見れば、日本が高度経済成長に入ってから、ここ何十年かの出来事です。 それまでは、竹カゴの種類や形状は、おそらく何百年以上、人々の暮らしの中で大きく変わっていないように思います。 昔からずっと続いてきたカゴには、普通の人が普通に使い、そしてその結果、多くの人が普通によいと思って残ってきた竹の姿があります。 そこに私は謙虚にならざるを得ず、まずは師匠たちが受け継いできた「道具」であるカゴたちを、きちんと編めるようになりたいと願います。
しかし、カゴ一つ一つを良く見ると、職人ひとりひとりによって全て違うことにも気づかされます。 同じ「かれてご」と言っても、作ったものを見れば、それぞれに職人の工夫や癖が現れていて、結局、意識的にせよ無意識的にせよ、その人自身のカゴになっています。 私が今作る「かれてご」も、基本は師匠からですが、しかし桶の輪や底の足竹のはめ方などは、他の水俣最長老の職人さんの影響が大きいです。 そして、その後も色々な職人さんの仕事を見て自分なりに取捨選択してきた結果が、とりあえず、現時点で私が作るカゴになっているのだろうと思います。
先日、日本画家の千住博さんが書かれた「絵を描く悦び」という本を読みました。 その中に、個性は今以上なくていい、と言う文章がありました。 逆に消そうとしても浮かび上がってくるもの、にじみ出てくるもの、自分の思い込みなど色々取り除いて最後に残るもの、それが本当の個性であるという一節は、竹に共通するところがあると感じ入りました。
師匠たちの竹籠には、人々に使われ続けてきた道具としての普遍性があります。 こう見せたいという美意識を加えるのではなく、むしろ用に徹して、とことん削ぎ落とされた形かもしれません。 そこには、一個人を超える重厚な存在感を感じます。 そしてそのカゴの上に、師匠たちは決して意識しなかったであろう、職人自身の個性が現れているのかと思います。 一方、今の自分は流動的なところも多く、これといった安心感が持てません。 使い勝手や丈夫さが求められる青竹の原点に立ち返り、普通にそれでよいと思うものを目指していけば、いつかは私を超えた私のカゴになってくれるのかもと願います。