水俣の竹籠職人(1)
青竹の籠を編み始めて、そろそろ7年目に入ります。以前の私は、竹に触ったこともありませんでした。「手仕事」とは全く畑違いの仕事をしてきた自分が、今こうして縁もゆかりも無かった水俣の地に来て竹籠を編んでいること。かつて、突然に訪ねてきた私を弟子として受け入れてくれた、竹籠職人の師匠のおかげだと、あらためて感謝します。
私はもともと、「竹籠」そのものよりも、それを編み出す「職人」に惹かれていました。農具・漁具・台所用品・・・その昔、私たちの生活に欠かせなかった生活の籠たち。それら青竹の籠を編む職人は、青物師とも呼ばれます。私は、そんな籠を黙々と編んできた、青物師の職人の生き方に興味がありました。当時まだ私が竹細工を始める前、弟子入りを認めてくれる青物師を探して各地を旅していた時のこと。探せば探すほどに、彼らは日本から消えつつある存在であることをあらためて痛感します。ひょっとして、もう彼らのそばで籠編みの技術を学ぶことなんて無理なことかも・・・そんな焦りを感じる中、「水俣にはまだ籠を編んでいる人がいるよ」との噂を、旅先のある別な職人から耳にしました。
水俣に到着して、私がはじめて彼の家を訪ねた時のこと。彼は、黙々と仕事場で籠を編んでいました。どっしりと達磨さんのように座り姿が定まった、穏やかな感じのするおじいちゃんでした。私はそれまでの経験から、「弟子にしてくれるところを探しています」と、いきなり伝えるのは、返って怪しい人だと思われて逆効果であることを学んでいました。そこで「私は竹細工に興味があって色々と職人を訪ねています」といったようなことから切り出し、その後それとなく自己紹介を始めました。彼はそれに対して何か返答しますが、しかし彼の喋る言葉は、今の水俣の人さえ使わない昔の水俣弁です。そのときの私は、きっと彼が言うことの半分も理解していなかったように思います。しかし、色々と親身に話を聞いてくれる彼に対して、私は次第と「もう前の仕事も辞めていて、趣味ではなく、直接に職人から竹細工を習いたいと思っています」みたいなことを伝え始めたとき、「給料は払えないけどそれでもいいのなら・・・」みたいなことを言ってくれたことだけは、はっきりと分かりました。その後、私は一旦水俣を離れ、手紙を書いて正式に彼の弟子になりたい旨を伝えます。そして、その一週間後くらいに彼の家に電話をかけて、恐る恐る返事を尋ねると・・ごくあっさりと、「良かよ」の一言。こうして私の次の人生が始まりました。
その後、水俣に引っ越して、彼のそばで弟子入り生活を始めた私は、この地にはまだ竹籠を使う暮らしが残っていることに気づかされます。むろん、昔ほどではなくなってしまったものの、それでも少し川をさか上って集落の中に入れば、軒先に竹籠がぶら下がっている光景をよく見かけます。米揚げ笊の「一斗じょけ」や、「かれてご」と呼ばれる背負い籠、収穫した野菜を洗う「芋洗いじょけ」や、土や雑草を運ぶ「手箕」など。地元の方は、プラスチック製品には無い、竹籠の使い勝手の良さを知っています。きちんと「面取り」されたザル(ヒゴの内側の両端部分を削ってギザギザの三角状にすること)の水切りがとても良いことや、夏場「ご飯じょけ」に入って涼しいところに吊るされた冷や飯が、風味が増して本当に美味しいこと、などなど。(実際、竹自体の持つ抗菌能力が、ご飯を腐りにくくさせるのです。)昔から、暮らしの中で実際に竹籠を使ってきた方たちの知恵と経験です。
水俣は、かつて世界に類をみないほどの公害「水俣病」を経験しました。「水俣病」とは、化学工場の排水に汚染された魚や貝を摂取することで引き起こされた、有機水銀中毒のこと。水俣は、悲しいほどに、そんな日本の経済発展のひずみを一手に引き受けてしまったところです。竹籠職人の多くは、高度経済成長の流れのもと、プラスチック製品の登場とともに、この日本から次第とその姿を消していきました。しかし皮肉なことに、化学公害が発生したこの地では、逆に竹籠を使う生活文化が、いまだ綿綿と受け継がれているのです
なぜだろう・・と考えます。他の地域と比べても(それが如何に水俣より更に山深い地域であっても)、ここ水俣ほどに竹籠が生活で活躍しているのを見かけることは、あまりないようにも思います。水俣病というあまりにも悲惨な出来事のせいでしょうか。安易な経済発展に踏み出せず、その後も籠を使う暮らしがひっそりと息づいてきたから・・・? しかし一番の要因は、私の師匠のような職人たちが、壊れた昔の籠の修繕なども含め、黙々と地元の人たちに竹籠を編み続けてきたおかげだと、私は思います。当時の私が水俣に来てまず驚いたこと。それは、昔ながらの青物師(農家の副業といった形でなく、専門で籠を編んできた職人たち。技術的に言えば、「ご飯じょけ」のような難しいフタ付きの籠をも、きちんと編めるような腕を持った職人。)が、決して大きくないこの町に、何と三人(!)もいたのです。みなそれぞれに、かつて水俣の職人に弟子入りして籠編みの技術を受け継いできた方たちです。そして、そのうちの一人が、十三歳でこの道に入った私の師匠でした。
(続く)