水俣の竹籠職人(2)



私の師匠は、昭和7年生まれ。丁度終戦前の13歳の時に地元の竹細工職人に弟子入りして、独立後もずっと竹籠を編んできました。30歳の頃に今の仕事場に居を構えましたが、それまでは「田舎周り」と言って、近隣の農村・漁村を泊まり歩き、それぞれの家庭で必要とされる様々な生活の籠を編みながら、籠職人としての腕を鍛えられてきた方です。幼少時に左膝の関節炎を患って、立ち仕事はできまいとこの世界に入った師匠ですが、松葉杖を片手に、道具袋一つを抱えて山々を遠くまで歩き回った師匠の苦労は、私はどれほどかと思います。


「田舎周り」では、その家族が必要とする、ありとあらゆる籠の注文を引き受けます。昔の暮らしは、竹籠無しには考えられないものでした。農作業の道具や海・川での漁具はもちろんのこと、家の台所で使われる竹籠たち・・・。籠職人として生きていくには、「これは編み方が分からないから」と断るわけにはいきません。昔の籠を編みほどいたり、あるいは他の先輩職人に頭を下げて教わったりしながらでも、とにかくその家族の注文に答えてきたそうです。師匠に尋ねれば、中でも、注文されて最も困ったのが、「炭通し(すみとおし)」という平たい籠。炭を屑と選別する時にふるいにかける「手箕」みたいなものですが、どうしても編み方が分からず、近隣で「炭通し」の編み方を知っている人を何とか探し出し、彼から教わってようやく編み上げたそうです。


 一日の日当は決まっていたそうで、籠をいくつ編もうとも、貰える金額は一緒でした。昔の職人は、竹割りから始めて仕上げまで、一日に「一斗じょけ」を二個、あるいは、「かれてご(背負い籠)」と「片口じょけ」を一個ずつ編むことができて、ようやく一人前と言われたそうです。雇う側としては、手の早い職人であることに越したことはありません。腕が今一つとの評判が立てば、次第と声はかからなくなります。籠職人として師匠が鍛えられたのは、そんな「田舎周り」の経験があったからでした。


 夜が明け始める頃にはもう起きて仕事を始め、そして日が暮れて手元が見えなくなるまで籠を編み続け・・・そんな毎日だったそうです。一番辛かったのはどんな時かと尋ねれば、軒先で竹を割って籠を編む仕事ゆえ、「冬の寒い日は竹が凍りつくように冷たかろうが。そんな時は手がかじかんできつかったよ・・」と、昔を思い出すように師匠は答えます。その家庭に二、三日、長ければ一週間以上泊り込み、そして注文の籠を全て編み終えると、今度は隣の家から「次はうちに来てくれ」と、お呼びの声がかかるそうです。そうしてその集落内を大概廻り終えると、別な集落から「次はうちのところに」と人が迎えに来てくれて、道具袋を運んでもらったりしながら、次の村へと移動していったそうです。

 
 
水俣は、海に面しているものの、少し内陸に入ればかなり山深い地域です。私の弟子入り時代、材料となる真竹を探しに、師匠と軽トラックでよく山道を通りました。ある時、山の中腹遠くにぽつんと見える一軒家を指差して、「あん家にも泊まってしょけ(ザル)ば作ったったい」と、師匠が言います。「道が無かところは、それこそ獣道みたいなところも通ってな」と。「ここのじ()さんはな、囲炉裏に足ば突っ込んで大やけどしたったい」「こん家はな、水車がごとごと廻りよったろが。そっがうるさくて、夜はなかなか寝付けんやった・・」とか。私はそんな昔話を聞くのが大好きでした。途中に立ち寄った家では、そこのおばあちゃんと、「まこてまぁ、懐かしかよ」と話し込むことも。私はそれを横目に、軒先にぶら下げられて充分に使い込まれた「バラ(底の平たいザル)」を手にしながら、これは師匠がその昔編んだものだろうなぁと、感慨深くなったものでした。



 師匠のもとで習い始めた最初の日、丁度地元で物産展が開催されて、私もその出店を手伝いました。店番をする私に、師匠はその場で、「はぜ(セイロの底に敷く竹簀(す)のこと)」の編み方を教えてくれました。竹を棒状に削ったものを、タコ糸を使ってゴザの様に編んでいくのですが、竹に触るのも初めてだった自分はなかなかうまくいきません。お客さんも珍しそうに集まってきて、私は恥ずかしいやら緊張するやら・・・。そんな中、「この人は誰かい?」と尋ねるお客さんに対し、師匠が「おっど(俺)の新しい弟子たい」と答えます。私はその言葉を後ろに聞き、どこかで嬉しさを感じていました。そして、その日の夕方頃のことだったでしょうか。師匠が席を外して私が一人で店番をしていた時、あるおじいちゃんがふと私に近寄ってきて、耳元で「あんたは五体満足なのに、何で竹細工なんかするんかね」と、真顔で尋ねてきました。かつて水俣では、多くの場合、竹細工は体の不自由な人の仕事だったのです。そんな昔の職人の厳しい歴史を実感したのも、私が籠編みを習い始めた同じ日のことでした。人々の暮らしを地道に支えてきた様々な生活の竹籠たち。それらを編み出す手仕事の技が綿綿と受け継がれてきた背景には、師匠含めて、多くの職人の生き様があるということ、それは今も私の中の原点です。


 弟子入りして最初の頃は、師匠と言葉が通じず、苦労しました。師匠は標準語は一切喋らず、ましてや昔の水俣弁も交じります。「こしこばっか、グルの方ば切らんか(これくらいだけ端っこの方を切りなさい)」と言われても、意味がさっぱり分からない私は「多分こんなことを言っているのだろう」と、自分勝手に想像しては動き、最初の数ヶ月はよく間違えて注意されました。しかし私にはいつも息子のように接してくれて、お蔭様で弟子入り中の三年間、私は籠編みを辞めようと思ったことなど一度もありませんでした。最初はヒゴ取りができないので、師匠が途中まで編んだ籠を手渡され、その続きを編むことから始めます。そうやって、徐々にヒゴの厚みや感覚を手に覚えさせていくのですが、でも最初は、「みそこし(丸い小さめのザル)」などが、どうしても丸く編めません。編み上げてみれば、横にひょろ長くなってしまったり・・・。でも師匠はそんな時、決して嫌な顔一つせず、「また作ればよか、今度は、まちっと良かっばな」と、静かに言うだけでした。師匠は飄々としていて、また穏やかな人です。冬場寒くて薄手の手袋をはめる自分に、「それじゃあ竹の感覚は分からん」と、ぴしゃと軽く叱られたこともありましたが、それでも怒ることは決してなく、いつも優しく籠編みの技術を私に教えてくれたものでした。

(続く)