私の師匠は昭和7年生まれ。幼少時に左膝の関節炎を患って松葉杖が手放せなくなり、立ち仕事はできまいと、丁度終戦前の13歳の時、地元の竹細工職人に弟子入りしました。 その一年後から「田舎まわり」と言って、道具袋一つ抱えて近隣の農村・漁村を訪ね歩き、あそこの家が籠を欲しいと聞けば二・三日、長ければ一週間近くそこに泊り込み、それぞれの家庭に必要とされる籠を編んで回る仕事を始めます。(今で言えば中学生の年で、松葉杖片手に山々を歩き回った師匠の苦労はどれほどかと思います)  そして、16歳の時に正式に独立(師匠の元を離れることを、こちらでは「下参(げさん)する」といいます)、下参後も10年近く、そのまま一人で「田舎まわり」の生活を続けました。 30歳の時に現在の住居に仕事場を構え、それ以降もずっと竹細工一筋で生きています。



仕事場の師匠


 師匠はよく、その「田舎まわりで」自分の腕が鍛えられたと言います。 その家族のどんな注文にも応じなくてはいけず(編み方の分からないものは他の職人に聞いたりしてでも編んだそうです)、また一日の日当の額は決まっていたそうで、従って注文する側としては、同じ日当であれば仕上げる籠の数が多い方に越したことはありません。 ですから、他の職人と比較して自分に声がかかるためには、「とにかく腕を早く、そしてよい品物を」ということで競争したそうです。 当時の竹籠職人は、竹割りから始めて仕上げまで、「一斗じょけ(一斗入りの米上げ笊)」を一日に2個完成させて、ようやく一人前と言われたそうです。(ちなみに私は、一斗じょけを一日1個も仕上げられません・・・・)


 私の弟子入り中、材料となる真竹を探しに、よく師匠と一緒に山奥まで軽トラックで入りました。 その度に師匠は、「あそこの家にも何日か泊まって、しょけ(ザル)ば作ったったい」と、その家庭での思い出話を聞かせてくれました。 戦後食料が充分でなかった頃、その家族は自分たちが麦飯で我慢をしてでも職人には白飯を出してくれた、なんて話も聞きました。


 しかしながら、私が下参する少し前頃より、師匠は心臓の調子が悪くなり、度々入院を重ねるようになりました。 私が独立してからも無理しない程度に仕事を続けていましたが、平成16年10月、心臓の血栓が脳に飛び、脳梗塞を起こして左半身が麻痺してしまいました。 そして平成18年6月、再び脳梗塞を起こし、現在もリハビリ中です。 何とか少しでも回復して欲しいと願っています。
 

※平成23年6月、享年79歳にて永眠いたしました。



師匠夫妻